文芸部ブログ

文芸少女折下ふみかの華麗なる冒険 その47

はじめまして。おりしたふみか、と申します。折紙の「折る」と上下の「下」、「ふみか」はひらがなです。和菓子屋の看板娘か、大正ロマンの女学生のようだと言われますが、現代を生きるフツーの女子高生です。以下私のフツーについて話します。
朝6時に起きます。目覚めはいいほうです。すぐに顔を洗います(顔だけです。歯を磨くのは食後です)。それから朝ごはんまでのあいだ、読書をします。朝ごはんは7時です。猛スピードで平らげます。それからあれやこれやと学校にゆく準備をし、自転車を飛ばします。学校には7時45分ころ到着します。SHRまでは自習室で勉強します(ほんとですよ)。
部活は文芸部です。本を読み、勉強をし、残った時間で自分が書く小説のことを考えます。思いついたことは「創作まるひノート」にずらずら書き込みます。部活は週に2回、火曜日と金曜日です。コンピュータ室で執筆です。同級生がおしゃれなカフェでパンケーキの写真を撮っているころ、私はコンピュータ室の一角で「密室殺人に窓は必要か」と眉根にシワを寄せています。ほかの部員とおしゃべりする時間でもあります。ついついおしゃべりに流れます。お菓子を食べるときは廊下にでます(コンピュータ室は飲食禁止ですよ!)。青春とは何かと問われれば、「提出日前日の推敲作業」と答えたいところです。
好きなものは推理小説です。事件が起こり、手がかりが散りばめられ、最後に名探偵が「わかりました」と言う、あの一連の流れに弱いのです。現実の私には、朝なくしたヘアピンの行方すら突き止められないのに、本の中では靴底の泥や時計のずれから真相にたどり着く人々がいます。私は彼らを尊敬しています。せめて日常でもその観察眼を活かしたいのですが、私に見抜けるのは母親の言葉に隠された真意だけです。たとえば「あなたの部屋は混沌としてるね」とは「さっさと部屋をかたづけなさい!」です。
SFも好きです。遠い未来、人類が火星に住み、AIと共存し、銀河を旅する時代。そんな壮大な世界に胸が躍ります。もっとも、私自身は教室のエアコンの温度設定に不満たらたらの人類を見ているので、宇宙進出の前にまずは温度設定の権利を獲得することが重要だと思っています(それって政治のはなしじゃね?)。未知の惑星、時間旅行、並行世界という言葉には抗えません。マルチバースの私はきっと、原稿の締切を守り、スポーツ万能で、数学の小テストでつねに満点を取っていることでしょう。
話題の映画もよく観ます。流行に敏感というより、「今みんなが関心をもっているものに興味がある」という野次馬根性に近いかもしれません。サスペンスなら伏線を探し、SFなら設定を考察し、恋愛映画なら「このすれ違い、あと十五分早く話し合えば解決したのでは」と別の意味でハラハラします。エンドロールが流れるころには、物語に感動する気持ちと、脚本の構造を分析したい気持ちが半々です。映画館を出たあと友人に「どうだった?」と聞かれ、「良かった。カメラワークとカット割りが刺激的だった!」と答えて微妙な顔をされた経験があります。
休日には親に連れられて山登りもします。最初に言っておきますが、私は休日の朝、5時に起床して、山道を登りながら「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい」などと考えるタイプではありません(ほんとはそうなりたいけど。漱石センセイ尊敬してます)。どちらかといえば、布団と相思相愛です。しかし両親は山を見れば登りたがるマロリーみたいな人たちです。ものごころついたときから私はかれらに連れられて登山をしていました。登山道では「あと少し」が信用できない言葉ランキング第1位です。父親の「あと少し」があと40分くらいなのはザラです。その言葉にだまされながら、それでも、山頂に到着し、さわやかな風を受けると、不思議なことに登山サイコーと思えます。そこからでしか見られない遠くの景色、自分の足でやり遂げた達成感、そして何より下山後のごはんのおいしさ。文明と空腹の勝利です。
こうして並べると、私はずいぶん散らかった趣味の持ち主に見えるかもしれません。殺人事件を解き、宇宙を旅し、映画を観て、山に登る。履歴書に書いたら採用担当者が戸惑いそうです。でも私の中では、全部がちゃんとつながっています。推理小説は「なぜ」を考える楽しさを、SFは「もしも」を想像する自由を、映画は「誰かの物語を受け取る喜び」を、山登りは「一歩ずつ進めば景色が変わること」を教えてくれます。
文芸部で文章を書くときも、それらが役に立ちます。登場人物の小さな違和感に気づく目、まだ誰も見たことのない世界を思い描く力、人の心が動く瞬間を信じる気持ち、そして途中で息が切れても最後まで書き切る根性。たぶん私は、趣味で遊んでいるように見えて、少しずつ自分を作っているのだと思います。
そんなわけで、折下ふみかです。ごくフツーの女子高生です。もし私が教室で黙って窓の外を見ていたら、恋の悩みを抱えているのではなく、密室トリックをひねり出そうとしているか、タイムリープの矛盾を解消しようとしているか、こんど観る映画に思いを馳せているか、週末の登山で筋肉痛になった足をいたわっているか、です。どうぞ気軽に話しかけてください。私からもどしどし話しかけますので、よろしくお願いします。

文芸少女折下ふみかの華麗なる冒険 その46

私は完全に行き詰まっていた。書けない。なにも思い浮かばない。原稿の締切は迫っているのに、あたまのなかも創作ノートもからっぽのままだった。理由はわかっている。春のせいだ。3月はいい。でも4月になったとたん、気分がもやもやしてくる。エッセイだけではなく、いろんなことにやる気がでなくなる。大好きな読書もできやしない。
場所を変えれば気分も変わるかとおもって、学校の図書館を目ざした。生ぬるい大気を突き抜けるように自転車をこいで学校に辿りつく。なんだかとてもペダルが重たかった。だれもいないだろうとおもっていたら、栞ちゃんがひとりで勉強していた。彼女は図書館のひっそりとした静けさに沈み込むようだった。英語の課題に取り組んでいるらしい。やってねー。それもやる気にならない。栞ちゃんは「よっ」と顔をあげると、すぐに問題集に集中した。さすがである。私は彼女の右斜めむかいにすわり、ノート型のPCをとりだす。春休みの時間が少しだけ遅く流れている気がする。もやもやの理由ははっきりしない。新学期、クラス替え、まだ見えない人間関係。変わっていく予感だけが、ぼんやりと胸の奥に居座っている。楽しいはずの春なのに、どこか取り残されているような感覚。PCをたちあげても、言葉はうまくつかまらず、キーボードのうえを指がさまようだけだ。
「顔、コワイよー」
栞ちゃんが話しかけてきた。
「……なんか、春って苦手かも」
私は机に突っ伏して、ぽつりとこぼした。意外にも栞ちゃんは「ああ、それね」と納得したようにうなずいた。
「理由ないのに、なんかどよんとしちゃうんだよね。春ってそういうとこ、あるよね」
「栞ちゃんにも、あるの、そういうの?」
「あるっちゃある」
成績優秀、スポーツ万能、美貌と文才をかねそなえた、文芸部の☆、本間栞から聞く驚きの発言だった。
「どうすんの? そういうとき」
「すべてをうけいれる」
「いいねー、栞ちゃんは、能天気でさ」
「花見、いこ」
唐突な展開にすこし戸惑ったけれど、このままここにいても、なんの進展もなさそうなので私は小さくうなずいた。
「でも、いいの課題?」
「いいっていいって。息抜き息抜き」
司書のOさんに挨拶をして、荷物をそのままに、図書館を出る。ぬくもりのなかに、冷たさを含む空気が春の匂いをまとっていた。ふたりで並んで歩きながら、他愛もない話をする。その時間が、少しずつ心をゆるめていく。学校の近くを流れる小さな川沿いがりっぱな桜並木になってる。しっていたけど知らなかった。通学路じゃないので通ったこともない。桜はちょうど満開だった。驚異的なまでに両岸の桜が小川に覆いかぶさっていた。圧巻だった。「きれいー」と叫ぶしかないとおもいながら、私はそのことばを飲み込んでいた。栞ちゃんは私の顔を覗き込むようにしてしきりにうなずいていた。私たちは川にかかった小さな橋の欄干にもたれ、しばし桜の虜になった。私と栞ちゃんは風になびくこんもりとした桜の風景のなかに包まれていた。川沿いの小道を近所のお年寄りやベビーカーを押した母親が何組かそぞろ歩きをしていた。青空を背景にして綿菓子のような桜の花が映えている。花びらが可憐に舞いはじめていて、昼前の陽光にきらりと輝いてみえた。遠くから眺めているだけだった春に、やっと少し触れられた気がする。塞いでいた気持ちが、ゆっくりとほどけていく。私たちは桜並木の端まであるき、戻ってくる途中の公園のベンチに腰掛けた。いいものがあるんだ、といって栞ちゃんが制服のポケットから紙包みを取り出した。
「なに?」
「じゃじゃーん」
栞ちゃんが紙包みを開いて私に見せてくれたのは、ラップにくるまれたヨモギ餅だった。鮮やかな緑色が私の小腹をくすぐった。ふたつある。
「はい、ひとつあげるよ」
「いいの?」
「もちろんだよ」
「ありがと!」
私はひとつつまんでラップを解いた。閉じ込められていた春の香りがぽわんと立ち昇る。その瞬間に少しだけ気分が明るくなる。ひと口かじる。やわらかい皮がのびる。ほのかな餡子の甘さが舌先に触れる。少しだけほろ苦い。その味が春の混沌をすっと包みこんで、喉元を過ぎた。
「……おいしい」
すなおな感激がしずかなひとことにあらわれた。栞ちゃんがくすっと笑った。
「でしょ。こういうの食べると、春も悪くないなって思える」
「花より団子」
「いや、花と団子」
その言い方がなんだかおかしくて、私は思わず笑ってしまった。さっきまでのもやもやがまるで掃除機に吸い込まれたみたいにすっきりしていた。
「気分は、ブルーで、ピンクで、グリーンで」
「なにそれ?」
「エッセイのタイトル」
「ふうん。いいじゃん」
新学期がはじまるまであと5日だった。

文芸少女折下ふみかの華麗なる冒険 その45

いよいよ新年度がはじまります! 始業式と入学式は4月8日水曜日。これを書いているのは3月31日なのでまだすこし先の話になります。3月2日に卒業式を終え、在校生の私たちは、その後、来年度の教科書を買ったり、個人写真を撮ったり、教室や下駄箱を移動したりして、そわそわしているうちに、春休みになってしまいました。時間って、アッ! という間に過ぎ去ってしまうものなんですね。気づいたら一週間が経っていた、みたいな感じでとにかく慌ただしくて、ようやく文芸部のこれからを考えられるようになりました。新学期には新入生を歓迎&勧誘する部紹介があるし(4月10日です)、たくさんの新入生に入部してもらいたい。部紹介では、おもしろくて、愉快で、楽しくて、といった文芸部のすばらしさを新入生に伝えたい。おおくの新入生に興味を持ってもらい、ひとりでもおおくの新入部員を迎えられるといいな。私自身にはあまりユーモアのセンスがないので難しいけど、新入生が笑ってくれるような「部紹介コント」を作りたいと思っています。え? 文芸部がコント? そうなんです。文芸部員はコントも書けますよ。乞うご期待! 新年度はどんな部員が増えて、どんな作品を創れるかな? 今から楽しみで、わくわくしている私です。今年度は、いったいどんな「華麗なる冒険」が私たちを待っているのでしょうか。まずは、文芸部恒例、金山登山ですね。てっぺんとるぜ!

 

文芸少女折下ふみかの華麗なる冒険 その44

2026年3月24日火曜日をもって、わたしたち太女生にとって2026年度が無事終了しました! ぱちぱちぱち。通知表もいただきまして、一年間のわたしの学業成績を振り返ると、愕然とするところもありましたが、次年度に向けてのよい発奮材料になるなと前向きにとらえることにして、春休みに突入します。
3月1日の卒業式で先輩たちを送り出し、物寂しい思いに囚われつつ、学年末の残りすくない日日をすごしてゆきながら、今度はクラス内に「友達と離れるのが怖い」「不安だ」なんて声が溢れかえるようになりました。新学期が始まるという、ポジティブとネガティブが混ざりあうこの時期……わたしは、お腹を痛めていました。おそらく不安から……。
また、終業式への不安とは関係ないことではありますが、つい最近、気分が最高潮に達したその瞬間、ソファーの足に小指をぶつけました。痛すぎて、軽く5分くらい悶えていました。
そんなこんなで不幸なこともありましたが、幸せだったことももちろんありました。贈り物として描いていた絵が、歴代最高の出来になったり、今まで描けなかった構図を描けるようになったり……イラスト関連でないものといえば、そんなに交流が無かった子と話してみたら凄く盛り上がったり、太田高校との探究合同授業で太田生と会話が弾んだり、本当に多くの幸せがありました。
些細なことであろうと、幸せは幸せ。一個一個の幸せを噛み締めれば、ちょっと大きな不安も乗り越えられるとわたしは思っています。
これから入学してくる新一年生の皆さんがこれを読んでくれていたならいいな、と思います。太女に入学してから、勉強、友人関係、家族……沢山のことで、みなさんはこれから悩むかもしれません。わたしもそうでした。今でも沢山悩んでいます。それでも、こうして一年を乗り越えたのです。それは、ただ悲しいことや自分の悪いところに目を向けるのではなく、「こんな楽しいことがあった」「この時幸せを感じた」と、些細な幸せに目を向けたからです。もちろん、ずっとそうでは駄目だけれど……思い詰めすぎないように、という意味です。わたしにとっては「文芸少女折下ふみかの華麗なる冒険」を続けてきたこともおおきな自信になっています。
日常生活の中に、ささやかな幸せを見つけるのって、案外楽しいものですよ! ぜひ試してみてください!
そして「ふみかの冒険」をこれからもよろしくお願います。

文芸少女折下ふみかの華麗なる冒険 その43

「クマ禍」の一年でした。ヤフー・ニュースによれば「環境省は7日までに、2025年4~11月のクマの出没件数が全国で4万7038件(速報値)に上ったと発表した。記録が確認できる09年度以降、最多だった23年度の2万4348件を大きく上回り過去最多となって」いて、「捕獲数(北海道を含む)は計1万2659頭(速報値)で、記録が確認できる06年度以降、23年度の9276頭を超え、過去最多。(共同通信2025.01.07)」ということです。また、「今年4~10月のクマによる死傷者が少なくとも196人に上り、過去最悪の人的被害が出た2023年度を上回るペースであることが朝日新聞の集計で分かった」という記事もありました(朝日新聞2025.11.5)。「環境省のまとめでは、クマによる死傷者数の過去最多は23年度の年間219人で、10月末時点では182人だった。今年度は10月末時点ですでに196人と、23年度と比べて、死傷者は10人以上多い」(同)ということであり、「秋田県では10月に起きた全ての被害が「山」ではなく、人間の居住地に近い「里」で発生していた。全国的に人の生活圏での被害が目立っている」(同)というオソロしい現状も指摘されています。
「持続可能な開発目標」というものがあります。Sustainable Development Goalsの頭文字をとってSDGsと表記される、アレですね。持続可能な開発のための17のグローバル目標と169のターゲット(達成基準)からなる国連の開発目標のことです。「開発」が前提になっていることが私は気になります。それは「進歩」とか「拡大」とは意味あいが異なるのかもしれないけれど、「持続」するために何かを諦めようというニュアンスは伝わってきません。「目標」に掲げられているのは地球規模で直面している「課題」であり、それらを解決しなければならないことは当然のことです。そのなかには環境問題に関する「目標」もあります。「13.気候変動に具体的な対策を」、「14.海の豊かさを守ろう」、「15.陸の豊かさも守ろう」のみっつです。まったくごもっともな「目標」なのですが、そもそもそんなことを「目標」に掲げなければならなくなったのはどうしてなんでしょう? 地球という「生態系」のなかで人間だけが身勝手に「進化」し続けたからなんじゃないでしょうか。
そのことと「クマ禍」とはおおきな関連があるのだろうと私はおいます。北海道ではヒグマが町なかを闊歩する「事件」が相次ぎました。そのヒグマたちは大抵「駆除」されてしまいます。仕方ないことなんでしょうが、そのまえにできることはなかったんでしょうか。
私のそんな疑問に答えてくれたのが『クマにあったらどうするか』(ちくま文庫)です。姉崎等という「アイヌ民族最後の狩人」へのインタビューを片山龍峯がまとめたものです。そもそも「アイヌ民族」というのは「和人」によって生活環境をおおきくゆがめられた日本土着の民族ですが、姉崎等という狩猟者が「最後の狩人」としてライフル銃を手放さなければならなかったのは「日本人」の勝手な環境整備のせいでもあります。「『クマが怖い』ものだっていうその言葉が怖いんだよね」という姉崎さんのことばに象徴されるように人間は一方的な価値観でものごとに対処してしまいがちです。クマはルールをまもるけど人間はまもらない、と姉崎さんがかたるように人間はどこまでいっても自分勝手な生き物なのです。はたしてそんな動物が「開発」をつづけて「持続可能な社会」を築きあげられるのでしょうか。ヒグマが人里におりてくるのは人間のせいです。人間はそのことを理解していない。ヒグマが肉食の野獣だとおもいこんでいるから、すぐに「駆除」しようとする。邪魔者は殺せという「危険」な発想ですね。「日本のヒグマ(Ursus arctos yesonesis:エゾヒグマ)は、北海道のほぼ全域に生息しています。そのうち天塩・増毛地方および石狩西部地方の個体群は、孤立して生息数が少ないため環境省のレッドリストに「絶滅のおそれのある地域個体群」として掲載されています」(WWFのサイトより)ということもそえておきます。
さて、実際に「クマにあったらどうするか」? 姉崎さんによれば、そのときは〇〇するのが効果的だということです。もし、まかりまちがってクマにのしかかられたら、△△するとよいらしいです。なるほどね。とても勉強になりました。