2025年5月の記事一覧

文芸少女折下ふみかの華麗なる冒険 その19

ある日の、嬉しいことがいっぱいあった帰り道のことを話そうと思います。まず、学校から駅までの歩き道です。道沿いの家で白と黒のまだら模様の猫を飼っている家があります。その家は風除室があって、そこに椅子が1脚あるんです。朝はたまに猫がそこで寝ていることがあるのすが、放課後通りかかるときは今まで一度も猫の姿を見たことがありません。でも、その日は放課後にも関わらず、猫が椅子の上に座っていました。そのとき、猫は起きていて、私が手を振るとそれに反応したかのように目をギュッと細めました。かわいくて、かわいくて、少し立ち止まってしまいました。その気持ちでルンルン歩いていると、いつもは、発車時刻ギリギリに駅に着くのに、発車5分前くらいには駅に着きました。時間に余裕があるっていいなって感じますね。次に、電車の中でのことです。いつもはかなり混んでいる時間帯の電車なんですが、その日はいつもより空いていて、座ることができました。ぼーっとしながら乗っていると、電車の向きが少しかわったとき、オレンジ色の光が私の顔に当たりました。普段は向かいの椅子にも人がいるので、外の景色は見えないのですが、その日は空いていたため椅子の端にしか人がいなくて、外の景色が見えました。大きく赤い夕陽がきれいで、小さく黒いカラスも見えました。今は春と夏の間くらいではありますが、この前授業で習った枕草子の冒頭の「秋は夕暮れ」を思い出して、なんだか嬉しくなりました。そしてゆらりゆらり電車に乗って、地元の駅に到着です。そこから家まで自転車で帰ります。家の近くまできたとき、自転車で乗っている3人の外国人に「コンバンハー」と明るく声をかけられました。私は少しびっくりして、反応が遅れて、自転車同士ですれ違った後、後ろを振り返って「こんばんは」と言い返しました。その人たちとは、ほぼ毎日同じ時間くらいにすれ違いますが、今まで挨拶をしたことはありませんでした。毎日すれ違うから、相手も覚えてくれたんだかわからないのですが、やっぱり挨拶をされると暖かい気持ちになりますね。笑顔で家に帰ったら、母に「なんかいいことでもあった?」と聞かれて、その日の夕食時に帰り道のことを少し誇張しながら話しました。

 

文芸少女折下ふみかの華麗なる冒険 その18

  疲れた。本が読みたい。
 目の前には、私が目を通すべき書き物が大量に積んである。予習しなくてはいけない教科書たち。復習を始めなくてはいけない問題集たち。
 でも、違う。どれも私が読みたい文字ではない。
 確かに、国語の教科書には物語が載っている。古典作品だって平たく言えば物語であることが多いだろう。
 窓から差し込む夕暮れ色の光が、我が家のリビングを鮮やかな橙色に染め上げる。オレンジ色の陽光はまばゆいほどローテーブルを照らすが、ソファの横は黒ぐろとした影を落としている。
 私はその黒ぐろとしたソファの影に何冊かの教科書を投げ捨てた。そのままの勢いでソファの背もたれに沈み込む。
 国語の教科書はまだいい。現代文も古文も漢文も、物語がある。
 ただし、数学、化学、生物、物理。こいつらはダメだ。なんの物語もない。新発見に至るまでの道のりや研究歴史からは人々の辿った営みが垣間見えるかもしれないが、いったい教科書の何パーセントだというのだろう。疲れて鈍った頭では、文字の奥に見える人々の人生や、感情や、そんな文字の奥の風景に思いを巡らす余裕がない。
 もっと手っ取り早く、鮮烈な景色が見たい。白い紙に黒いインクが印刷されただけの存在にもかかわらず、現実以上に色彩にあふれた景色を映し出してくれる、そんな物語が読みたい。
 しかし、どんなに心から願ったとて、現状やらなければならないことが減るわけでもなく。目の前の課題の山が消えることもなく。重たいため息の数と過ぎ去った時間だけが増えていく。
 物語を読んでいる間だけは、この現実(課題の山)を忘れられる。別人の人生を歩むことができる。この人生が一度しかないものでも、物語を通して私は誰にでもなれるし、なんにでもなれる。いま私は別の(課題のない)人生を歩んでみたい気分だ。
 オレンジ色の夕陽は濃い赤色に変わって、電気のついていないリビングは薄青い闇が這いのぼるように薄暗くなってきた。
 そろそろこの物語に思いを馳せる(現実逃避の)時間も終わらせないといけないようだ。重力二割増しくらいの重さの体をどうにかソファから引き上げて、部屋の明かりをつける。パッと明るくなった部屋には、もう夕暮れの色は残っていない。
 蛍光灯の無機質な光は、教科書の無機質な文章をやたらと強調する。学校の授業だけで情報が飽和した頭はぼんやりと痛むが、それでも教科書に目を通さない理由にはならない。
 まだまだ溢れ出るため息を噛み殺しながら教科書の山に手を伸ばした。せめてもの抵抗に伸ばされた手は古典の教科書をつかむ。
 ページを開く。読む。匂いがする。ここじゃない場所の。花の匂い。月を見上げる夜の匂い。別れを告げる朝焼けの色が見えて、気がつけば見知らぬ世界に一人立っている。誰かを呼ぶ声。火花がぱちぱちと弾ける音。
 ガラガラと小さな滑車が回る音。は、と意識が戻る。玄関が開く音。母が帰ってきた。
「ただいま」
「……おかえり……」
 ここは? リビング。なにをしていた? 読んでいた。教科書を読んでいた。
「はあ……」
 体の中をぐるぐると巡っていた感情が呼吸にのって外に溢れていく。このため息は、今までとはまったく別物だった。
 母はこんな私の様子に慣れているからか、ちらりと私の方に目線を投げかけるだけで特に何も言わない。
 さすがは時代を超えて残った名作たち。読み始めれば、今も昔も変わらない人々の感情の移ろいが目の前に現れては消えていく。乗り始めた気分をそのままに、今度は現代文の教科書を手に取った。
 数学、化学、生物、物理の教科書たちは、ソファの横に落とされたままひっそりと、ただそこにあった。

文芸少女折下ふみかの華麗なる冒険 その17

◆新入生歓迎ハイクde俳句◆
5月10日土曜日に太女文芸部恒例の「新歓ハイキング」を実施しました。今年は太田高校の文芸部にも声をかけたところ、こころよく賛同してくれまして、初の「合同」ハイキングとなりました。新聞部も金山城址の取材をかねて参加することになり、総勢18名(太田8、太女文芸部6、太女新聞部4)の大所帯。おまけにせっかくなら山頂で句会をひらこうということになり標記のとおり「ハイクde俳句」という企画とあいなりました。ところが……です。「書を捨てよ、山に行こう!」という寺山バリの意気込みとは裏腹に、前日からの雨がやまず、天気予報では9:00ころにはあがりそうだったのですが、金山とはいえ「山」ですから、足元があぶないだろうということで、目的地を大光院に変更することになりました。ざんねんむねん! 9:20ころ、小降りの春雨をついて学校を出発。30分くらいかけてのんびり八瀬川をさかのぼり、大光院についたころには雨もやみ、「雨」というベタなお題の俳句をきもちよくひねることができました。

   

学校にもどってから小会議室でお弁当をたべ、11:20ころから句会をひらきました。本来なら、各自の俳句に投票してその得票数を競うのですが、今回は平安時代の歌合わせよろしく、太田高校を先攻とし後攻の太女と交互にひとり一句ずつ発表する催しとしました。発表者はじぶんの俳句を黒板に書き、創作の意図を語ります。それについてあれこれと発言しあい、「文芸ライヴ」としておおいに盛りあがる企画となりました。新聞部の生徒もふたり、自作の俳句を物おじせずに発表してくれました。どちらもすばらしいできばえで文芸部員も脱帽です。12:30ころにはすべての参加者が発表をおわり、「ハイクde俳句」は無事終了しました。金山に登れなかったのは残念でしたが、句会はとても有意義でした。来年は天候に恵まれて山頂での句会ができるとよいなと思います。

      

《参加者の俳句》
【太田高校文芸部】
 祝福と時雨れる行進神域へ
 憩いの場廃墟と醸す春雨や
 はだれ雨さも聞こえるはうぐいすと
 水落ち日牙城を思す腐れ木
 寺社巡りおかし嚙み締め梅雨を往く
 百余年蝉堕ちる日も雨ざらし
 五月雨に溺れる私は腹痛し
 五月雨と旅路共にす人の跡
 雲集い霧に霞んだ春の跡
 裏巡る雨盗る虹は眩しくて
 身は渇くされど実はふる皐月雨
 寝癖も寝冷えも何もかも湿った
 幽玄や滴り騒ぐパラドクス
 あと四つ武者よ参らん秋黴雨
 汗か? 雫かこれは拭えやしない
 五月雨でびしょ濡れになる遊具かな
 靴染みて冷たさ足に草を踏む
 呑龍の寂れた稚舎にさみだるる
 あめ紡ぐ萎びた花に飴降らす

【太田女子高校文芸部&新聞部】
アマリリス隠す滴は雨涙
青葉雨勿忘草の空の色
紫陽花と誰も知らない月時雨
雨 若葉を滑る 頬に触れる
五月雨は大光院の龍の雲
八瀬川沿い青草の上白玉光る
呑龍の如来濡らして初夏の風
五月雨や松を見据える大本堂
皐月雨露にて光る三つ葵
新緑の草木もしなる遊歩道
霧雨に囲われ咲ける菖蒲かな
濡れ若葉落ちる雫が映す寺
霧雨の新緑霞む大光院
夕立の待って降りたる蝉時雨
菖蒲葉をすべり落ちては雨となる
人も刻も巡りて二度はなき一日(ひとひ)