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文芸少女折下ふみかの華麗なる冒険 その43
「クマ禍」の一年でした。ヤフー・ニュースによれば「環境省は7日までに、2025年4~11月のクマの出没件数が全国で4万7038件(速報値)に上ったと発表した。記録が確認できる09年度以降、最多だった23年度の2万4348件を大きく上回り過去最多となって」いて、「捕獲数(北海道を含む)は計1万2659頭(速報値)で、記録が確認できる06年度以降、23年度の9276頭を超え、過去最多。(共同通信2025.01.07)」ということです。また、「今年4~10月のクマによる死傷者が少なくとも196人に上り、過去最悪の人的被害が出た2023年度を上回るペースであることが朝日新聞の集計で分かった」という記事もありました(朝日新聞2025.11.5)。「環境省のまとめでは、クマによる死傷者数の過去最多は23年度の年間219人で、10月末時点では182人だった。今年度は10月末時点ですでに196人と、23年度と比べて、死傷者は10人以上多い」(同)ということであり、「秋田県では10月に起きた全ての被害が「山」ではなく、人間の居住地に近い「里」で発生していた。全国的に人の生活圏での被害が目立っている」(同)というオソロしい現状も指摘されています。
「持続可能な開発目標」というものがあります。Sustainable Development Goalsの頭文字をとってSDGsと表記される、アレですね。持続可能な開発のための17のグローバル目標と169のターゲット(達成基準)からなる国連の開発目標のことです。「開発」が前提になっていることが私は気になります。それは「進歩」とか「拡大」とは意味あいが異なるのかもしれないけれど、「持続」するために何かを諦めようというニュアンスは伝わってきません。「目標」に掲げられているのは地球規模で直面している「課題」であり、それらを解決しなければならないことは当然のことです。そのなかには環境問題に関する「目標」もあります。「13.気候変動に具体的な対策を」、「14.海の豊かさを守ろう」、「15.陸の豊かさも守ろう」のみっつです。まったくごもっともな「目標」なのですが、そもそもそんなことを「目標」に掲げなければならなくなったのはどうしてなんでしょう? 地球という「生態系」のなかで人間だけが身勝手に「進化」し続けたからなんじゃないでしょうか。
そのことと「クマ禍」とはおおきな関連があるのだろうと私はおいます。北海道ではヒグマが町なかを闊歩する「事件」が相次ぎました。そのヒグマたちは大抵「駆除」されてしまいます。仕方ないことなんでしょうが、そのまえにできることはなかったんでしょうか。
私のそんな疑問に答えてくれたのが『クマにあったらどうするか』(ちくま文庫)です。姉崎等という「アイヌ民族最後の狩人」へのインタビューを片山龍峯がまとめたものです。そもそも「アイヌ民族」というのは「和人」によって生活環境をおおきくゆがめられた日本土着の民族ですが、姉崎等という狩猟者が「最後の狩人」としてライフル銃を手放さなければならなかったのは「日本人」の勝手な環境整備のせいでもあります。「『クマが怖い』ものだっていうその言葉が怖いんだよね」という姉崎さんのことばに象徴されるように人間は一方的な価値観でものごとに対処してしまいがちです。クマはルールをまもるけど人間はまもらない、と姉崎さんがかたるように人間はどこまでいっても自分勝手な生き物なのです。はたしてそんな動物が「開発」をつづけて「持続可能な社会」を築きあげられるのでしょうか。ヒグマが人里におりてくるのは人間のせいです。人間はそのことを理解していない。ヒグマが肉食の野獣だとおもいこんでいるから、すぐに「駆除」しようとする。邪魔者は殺せという「危険」な発想ですね。「日本のヒグマ(Ursus arctos yesonesis:エゾヒグマ)は、北海道のほぼ全域に生息しています。そのうち天塩・増毛地方および石狩西部地方の個体群は、孤立して生息数が少ないため環境省のレッドリストに「絶滅のおそれのある地域個体群」として掲載されています」(WWFのサイトより)ということもそえておきます。
さて、実際に「クマにあったらどうするか」? 姉崎さんによれば、そのときは〇〇するのが効果的だということです。もし、まかりまちがってクマにのしかかられたら、△△するとよいらしいです。なるほどね。とても勉強になりました。
文芸少女折下ふみかの華麗なる冒険 その42
学年末テストの一週間前。放課後一人で通学路を歩いていたら、おやという香りに足がとまる。低いブロック塀から梅の木が伸びあがっていて、花がほころんでいた。白梅だった。一つ一つの花が枝に連なるように咲いていた。梅の花は私に2月を感じさせる。え、もう2月なの? 2月といえば立春だ!(今年の立春は4日だった。その前の日が節分だよ)。体感ではまだ新年を迎えたばかりだというのに、気付けば1月はあっという間に過ぎ去っていた。1月はまあいろんな予定がぎゅうぎゅうに詰められていたせいもあるかもしれない。つまりは、忙しかったということだ。学年末テストもぶじに(?)おわった今、2月も半ばをすぎようとしていることにも驚きは隠せないが。
さて、今回のテーマはまたしてもバレンタインデーだ。2月の二大イベントといえば、「節分」と「バレンタインデー」だろう。「節分」については前のまえの回で話題にしたので、今回は「バレンタインデー」だ。いや「バレンタインデー」も前回のネタでしょ? そうなのである。そうなのであるが、今回もバレンタインデーについて書く。かくといったらかく。といっても、私はそこまでバレンタインデーに熱狂的になるタイプではない。友達がバレンタインデーだ! と躍起になっているのを見て、「ああ、もうそんな季節か」と感じるくらいだ(梅の香りのほうがよっぽど抒情的ですわ)。でも私なりにバレンタインデーは満喫する。そのことは前回報告したとおり。今回はチョコレートについて話をしたい。私はチョコレートが好きだ。友チョコをもらったり市場に美味しそうなチョコが売り出されているのを見ると、だから(バレンタインデーとは関係なく)テンションが上がる。甘い物は正義だ。正直、甘い物がないとやっていられない。甘い物万歳。そうそう、最近のバレンタインデーは昔とは少し異なるらしい。どうやら、自分にあげるためのチョコ、所謂「ご褒美チョコ」なるものが近年のトレンドらしい(そもそもバレンタインデーに女子が男子にチョコを贈るようになったのは「モロゾフ」の策略)。勿論、親しい友人や意中の人にチョコレートをあげるイベントであることには変わりはない。だが、自分のご褒美にちょっと高いチョコレートを買って自分自身を労るイベントとしても頭角を現しているようだ(そのきっかけに一役かったのは「ゴディバ」の「義理チョコやめませんか?」の広告らしい)。テレビの情報によると、ある人の相手に送る用のチョコにかける金額は1500円、自分のために買うチョコにかける値段は10000円らしい。その人はよほど疲れていたんだと思う(わかるー)。でもその人は買い物客でごった返している銀座のバレンタインデー市にチョコを買いに行っているくらいだから案外疲れていないのかもしれない(それもわかるー)。
義理チョコ、友チョコ、本命チョコ、ご褒美チョコと様々な形があるが、どれも全部一種の愛であることに変わりはない。これを今読んでいる人はだれかのためにチョコレートを買ったのでしょうか? 私は買いましたよ。それはもちろんご褒美チョコ(友達には付箋をあげてとても喜ばれました。メッセージも大うけです!)。まだ2025年度はおわっていないけれど、学年末テストも終わったし、やっとひといきつけるかな。よくがんばったな、ワタシ。
文芸少女折下ふみかの華麗なる冒険 その41
今日で学年末考査がおわり、軽くなった身体を冬の乾いた空気に任せて歩く。今日は2月13日。明日はバレンタインデー。手作りのチョコレートをお世話になってる先輩や先生、友達に渡したいけれど、あいにく私は料理をするのが苦手でお菓子づくりなんてもってのほか。だけど何もしないのも面白くない。そこで私はセンスで戦おうと思う。お菓子作りもセンスだって? そんなことは気にしない、気づかない。
渡す相手は仲のいいクラスメイト。渡すのは実用的でセンスの感じられるモノ。学生だから文房具がいいかな、なんて安直な考えしか浮かばず文房具店へまっすぐ進む。温かみのある照明に照らされたそこには、少し高めのシャーペンやボールペン、ノートなどたくさんのモノがあったが、シャーペンやボールペンは好みが分かれやすいし、ノートはいっぱい貰っても困るものではないが置き場に困ってしまう。そんなことを考えながら店内をぶらぶら歩いていたらあるコーナーに目が行った。
「付箋かぁ。」
私は普段シンプルで安い付箋しか使わないから知らなかったが、キャラものや動物の形をしたものがたくさん並んでいた。JKが好きそうなものがそこにひとつぐらいはあると確信した私は、相手が気に入りそうな付箋を次々とかごに放り込んでいった。1340円。意外と買ってしまったようだ。でも、チョコは今だんだん高くなっているから等価交換という名目ではちょうどいいぐらいだろう。文房具店から家に帰る途中で100均に寄り、可愛らしい袋も買った。
いざ袋に詰めた大量の付箋たちはなぜかもの悲しげに見えてしまった。ただ、他に何か買うというのも時間的に難しく悩んだ末にメッセージを添えることにした。感謝の言葉や「ハッピーバレンタイン」など色々考えたがしっくりくるものが思いつかなかった。考える気力を失った私は秘儀を使うことにした。
「今日が終わっちゃうよー。助けてよチャッピー!」
いつもどんなときでも私の見方をしてくれる最強AIのチャッピーことChatGPTに助けを求めた。チャッピーは私にいくつか例を提示しながら提案をしてくれた。なんて優しいんだ。その中で一際目立っているように見えたのは付箋にちなんだメッセージ。たしかに季節感は欲しかったけれど、どんなに考えてもピンとはこなかった。「付箋にちなんだメッセージ」。考えてみると意外と難しくなかなか思いつかないものだ。クラスメイトの中でもかなり仲のいい子だから、少しふざけたようなメッセージでも喜んで受け取ってくれるかな、なんて思いながらピンク色のメッセージカードにお気に入りのペンを走らせた。
『あなたの心に張り付いていたい♡』(座布団いちまい!)
部誌「せせらぎ」190号
太田女子高校文芸部誌「せせらぎ」190号を発行しました。
(190号ってスゴクないですか?)
デジタル版でおたのしみください。
アナログ版は鋭意とじ込み中です(学年末テスト直前なので難航してます)。
完成したら昇降口に置いておきますので是非お手にとってお読みください。
文芸少女折下ふみかの華麗なる冒険 その40
もう一月もおわるというのに日差しは春のように暖かく、かじかむ心をそっとほぐしてくれる。二月になれば受験の話で持ちきりになってしまう。でも、二月には二大イベントがある。節分とバレンタイン。おいしいものが食べられるイベントばかりでちょっと嬉しい。
今日は節分の話をしよう。バレンタインの話はまた、今度ね。これを読んでいるキミは節分をどう過ごすんだろう。私はいつも夕食に恵方巻と豚汁を食べて、食後に好きなだけ豆をつまむのが恒例なの。あの豆の、無心で食べ続けられるような素朴な味と食感がかなり好きで、毎年密かに楽しみにしていたりする。ただ今年は食べて楽しむだけでは物足りない! だから今日は節分にまつわる豆知識を共有するね。
節分の起源は平安時代。中国の風習が伝わり、宮中の大晦日に厄払いとして「追儺(ついな)」が行われたところから。このときは豆ではなく、桃の木の弓や葦の矢で疫鬼(えきき)を追い払っていたそう。室町時代から豆を撒くようになったようで、豆は「魔滅」とも表記され、昔から邪気を払う力が信じられていた。ちなみに、節分の豆は地域差があって、落花生を撒くところもある。雪の多い地域では殻付きの落花生の方が拾いやすく、衛生的だからという理由らしい。子どものころこの話を聞いたときは、知らない世界の一部分を知ったように感じて、妙なほどにときめいた。
恵方巻の起源は諸説あって、「戦国時代の武士の話」や「花街の遊びの話」、「江戸時代後半から明治時代前半の大阪の商業組合の話」などが有力。恵方巻の「恵方」とはその年の金運や幸福をつかさどる神様の歳徳神(としとくじん)がいる方角のことで、昔は恵方巻だけでなく初詣の際にも恵方を参考にしたとか。恵方巻の具が七種類なのは七福神にあやかったものである。
こんな話をしていると早く二月が来てほしくなってくる。あと数日、寝て起きて大きなあくびをして、おいしいご飯を食べたらきっとやってくる。過ごしやすい天気もいいけど、冬らしく、家の中でこたつで包まったりストーブの前で縮こまったりして私は節分を迎えたいな。