文芸少女折下ふみかの華麗なる冒険その2
三宅香帆の『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』(集英社新書)を読んだ。学校の図書館の新着図書だった。「働いていると本が読めなくなるのか!?」という驚きで思わず手に取った。今の私は本を読むことが大好きで、4日に1冊くらいのペースで読み散らしている。小説がメインだけれど、哲学的な新書にも手を伸ばしている。本のない生活なんて想像できないけれど、就職して本が読めなくなったら、私はおそらく「死ぬ」。死ぬのはイヤだからそんなことにならないように対策をたてねばなるまい、という決意でページをめくった。結論からいえば、働いていると「暇がないから」本が読めなくなるというあたりまえな話であった。全身全霊で生きてゆかねばならない現代人は役に立つ情報の収集にだけ汲汲としている。いわゆる「読書」をとおしてえられる知性は「教養」と定義され、なんとそれは現代人にとって「ノイズ」になっているから切り捨てられてしまうのだ、という。だからSNSやインターネットを通した情報収集や何倍速にもして映画やドラマを見ることが流行る。安易に「正解」が準備されているブンガク作品の氾濫もそんなことが理由なのかもしれない。だから三宅香帆は「半身(はんみ)で生きましょう」と声をかけている。残念ながら社会人ではない私には実感がわかない。でも、私ら高校生だって、忙しい。授業の予習や復習、週末課題、毎週の豆テスト。土日には部活だってある。それらを真剣にこなしても、私には本が読めている。本を読むことで(おそらく)「教養」を身につけている。友達には本を読まない子もいる。それはその人の価値観である。おそらくだけど、世の中が「半身」になっても読書に興味のない人は金輪際本は読まないだろう。だから(たぶん)私は社会人になっても好きな読書をつづける。続けられる。三宅香帆は就職をして本が読めなくなって会社をやめたそうだ。彼女は半端じゃない物量の本を読んでいる人だ。それが一瞬でもゼロになれば苦痛だよ。(私なら「死ぬ」。)でも彼女は仕事をやめて書評家として生きている(働いている)。最初からそういう道を選んでいればよかったのに、という話なんじゃないかな。やりたいことと仕事をわりきるみたいなこともでてきたけど、やりたいことが仕事であるほうが楽しいような気がする。私にはまだ「それ」が何かはわからない。わからなくてもよい(ことにする)。いつかたどりつける、とぼんやりおもって今、私は本を読むのだ。